近くの山城 大聖寺城
自宅から車で10分くらいのところに大聖寺城跡地があります。慶長5年(1600年)、前田利長2万5000千(1万2千という説も)に攻められ落城。城主山口宗永父子はともに自刃しました。
いわゆる関が原の北陸での前哨戦です。ちなみに小松城の丹羽長重との「浅井畷の戦い」は落城後、金沢へ帰る途中におきました。
山頂へつづく階段を登ると草木の中から土塁や空堀が見え隠れします。本丸・二の丸・三の丸などの跡地の保存状態はいいです。
本丸付近からの眺望。この方向の先に丹羽長重の小松城があります。1600年8月1日、前田の軍勢2万5千が小松城を避けるようにして、近くの松山城に布陣。そして決戦の火蓋が切られました。
籠城は援軍が来ないと戦になりません。多勢に無勢、降伏の意思表示をしたが前田勢はこれを許さず城内に突入。8月3日に落城そして炎上。その黒煙は加賀を覆いつくしたという。
ちなみに私の出身中学校のすぐそばに浅井畷があり、母校の小松高校のグランドの外れには小松城本丸跡があります。両方とも目立たないせいか、その歴史的意味を知る人は少ないと思います。
本丸にある山口宗永の石碑です。もともとは備前の小早川秀秋の重臣でしたが、ウマがあわず秀吉の直参となりました。
小早川秀秋は秀吉の正室北政所の兄の五男で、秀吉の養子として育てられ1594年に岡山城の小早川隆景の養嗣子となりした。関が原では家康の東軍に寝返り、西軍に決定的な打撃を与え東軍に勝利をもたらしました。
戦後の論功行賞で領地を大加増されましたが「裏切り者」の誹謗中傷に悩まされ、酒びたりの生活となり21才で命を落とします。これにより小早川家は家名断絶・領地没収の処分を受けました。あまりに惨い処分です。
秀秋の早すぎる晩年には、山口父子の幽鬼に悩まされていたのではないでしょうか・・・
「あの者たちはだれの組のものたちか」
「は!?」
「先を行く者はだれの組のものか」
「先を行くと申しますと? 」
「あれが見えぬか」
そこまで言うと秀秋はあとの言葉を続けず、
「蒸し暑い夜だのう」
と話題を反らせて言った。秀秋は他の者には見えぬものが自分だけ見えているらしいことに気付いたからである。
話が長くなりそうだからこのへんで止めなきゃ・・・・誰か止めてくれ・・・
山口宗永の家系はエリートで太平洋戦争で活躍した海軍二航戦司令官の山口多聞(たもん)も子孫の一人です。ミッドウェー海戦で戦死。戦艦「飛龍」とともに太平洋に沈む。
航空戦略戦術の先駆者であり、敗れたとはいえその卓越した作戦指揮から戦後連合国側からも最大級の評価を受けました。
余談ですが三船敏郎が「ハワイ・ミッドウェー大海空戦 太平洋の嵐」で、藤田進が「トラ・トラ・トラ!」で山口多聞を演じています。
小早川秀秋と山口宗永、頭の良さから言ってもウマが合いそうにもありませんね。
私の戸井という変わった名前ですが、私なりに調べたところどうも小早川家に関係しているような気がします。
その昔、相模早河荘土肥(どい)郷、いまでいう神奈川県湯河原町、を本拠とした土肥実平の子、遠平が小早川氏を称したのが始まりです。その後、安芸に移り毛利氏の傘下になり元就の三男隆景を養子に迎えました。
隆景から秀秋に家督が譲られた後、ウマが合わないという理由で秀秋の重臣の山口宗永が加賀にやって来るわけですが、その山口の家臣か雑用係かはわかりませんが名前が土肥というものがいたのではないか。その土肥が変化して戸井になったのではないかと思う次第です。
以前親戚が言っていた中国地方から流れてきたという説にもあてはまります。
いや~、歴史ってほんとにおもしろいですね。